突然訪れた・・・・・大動脈解離の闘病日記とその家族のブログ

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結局ICUには1ヶ月超居た。そしてついに一般病棟に移れる日が来た。本当に嬉しかった。ICUでの入院生活はとてもしんどいものだった。手術前に入院していた一般病棟の看護師さんの優しさが恋しかったし、オムツじゃなくトイレに行ける事が嬉しかった(実際には傷口が痛くて、トイレに行くのも大変だったのだが)とても嬉しくて移動する日には早起きして、今か今かと看護師さんが迎えに来るのをずっと待っていた。そして、ついに元居た病室に戻れた。全てが懐かしく、出迎えてくれた看護師さんたちの笑顔と温かい言葉に少し胸が熱くなった。そこでまた1ヶ月弱入院して、近くのリハビリ病院に転院した。一般病棟に移ってからも約半月間は食事はとれずに鼻から管を入れて栄養を胃に流し込んでいた。トイレも便の時は車椅子でトイレに連れて行ってもらっていたが、尿は尿瓶だった。ずっとベッド上で過ごしたが、PT(ベテランの役職ある方)が毎日午前午後と2回来てくれて右手のマッサージと立ち上がりや歩くリハビリをしてくれた為、少しづつ、ベッドでも座位がとれるようになってきた。ただ座れるだけだが、寝ている世界とあきらかに違う広い世界を感じることが出来るようになって来た。子供はもちろん、親戚の伯父、叔母さん達従兄弟、弟、友人達が見舞いに来てくれた。わざわざ、関東、東京から来てくれる友人もいた。弟も茨城から日帰りで新幹線を使って来てくれた。また、感動したのは、最初に乖離の救命手術をしてくれ、この病院を紹介してくれた東京の大学病院のK医師が病室に来てくれた時はびっくりした。(心臓外科医の勉強がてら来院してくれたらしい。)北京オリンピックをテレビで観戦した夏の思い出です。最初の乖離の手術がトリノオリンピックで2度目は北京。次は???
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術後数時間で目が覚めた。(らしい。。。)両隣を含めたくさんのベッドが並んでいるICU内だった。とにかく腰が痛かった。ずっと同じ姿勢で寝ているのは腰に辛い。。。最初の乖離の手術のときも、その後の脳梗塞の術後も腰痛はしんどかった。この時もベッドに起き上がりたくて看護師さんに聞いてみたが、いつものとおり答えはNO!!だった。「その後知るのだが傷の痛さで起き上がることは事実上無理だった。少しだけベッドにか角度を付けてくれた。痛みがなくなりとても楽になった。

ただ・・・、右手に異常を感じた。痺れがあり、異常に指先が冷たく感じた。まるで氷を指先で掴んでいる様な冷たさだった。看護師、医師に話したが長時間の手術中の体勢で圧迫されたか、手首辺りに血圧を常に測定できる物を入れたための影響か、手根幹の麻痺だろうから、検査をしながら時間が経てば治るだろうとの事だった。肺に溜まる痰を自力で吐き出し、唯一使えるはずの右手でティッシュを取り、その中に痰を吐き出さなければいけなかったが、そのティッシュさえ上手く掴めなく辛かった。また、痰を出しために、何度も咳をすると腹筋が引き攣り辛かった。また時々看護師さんから痰の吸引をしてもらうが、これも辛かった。鼻から吸引用のチューブを入れて肺の痰を吸い上げるのだが、鼻から物を入れるということは日常では殆んど経験ないので看護師がチューブを持ってくるたびに拒否っていた。最初の乖離の手術の時にはのどに穴を開け、機械で吸い取っていたらしい。(2週間ほど眠らされていた為)私は眠っているだけなので楽だった。今回はあまりに辛かったのでのどに穴あけて機械を入れてくれと頼んだが、案の定断られた。。。但し、術後暫らくは人工呼吸器が入っていたのでその間は痰取りとは違うしんどさがあった。術後数日して呼吸器が外され、おかゆが食べられる様になったが、誤えんがあった様で肺炎がおこった為、担当医師がある日の夕方私のもとに来て、「このままじゃ、もたないから悪いけど、また呼吸器入れるよ。」と告げた。もたない。。。もたないってどういうこと???やばいっていうこと???後で聞いたが自宅にこの医師から連絡があり、「今晩が、山場になりそう。。。」と言われたらしい。このICUには1ヶ月以上居たがその間、唯一の楽しみは娘達の顔を見ることだった。

神経内科による検査で右手の治療は必要ないとの事だったが、状況はいっこうに良くならなかった。
再度取り付けた呼吸器も足り外されてからは、手術の傷口の痛みが辛かった。リハビリでベッドの上半身を30度だけ上げて30分間は起きてるように言われたがあまりの痛さに3分と持たなかった。看護師さんには、痛みになれないといけないよ、とハッパかけられたが、我慢できる痛みではなかった。本当に傷口が開いて血が出ているんじゃないかと思うような痛みだった。「70歳過ぎてる方でも術後1週間も経てば痛みに耐えて歩いているのに・・・」とか言われたけど、冗談じゃない!!一人一人手術も違うだろうし、状況も違いだろう!!と思ったが、口には出せなかった。辛いことが多いICUだったが一番辛いのは痛みや気持ちを理解してもらえなかったことかもしれない。術後の影響ではんかい神経麻痺の為息が漏れて声が殆んど出なかった。

また、そんな傷が痛い中で男性看護師と若いPTが私を入浴させた。ベッドで起き上がれない私をなんとか(無理やり)起こし車椅子に乗せて上の階のお風呂場に連れて行ったが、立ち上がるときの痛さに車椅子にのってるときの痛さ、浴室で浴室のいすに据わりかえる時も痛いどころの話じゃなかった。「気持ち良いでしょう!」と言いながらお湯をかけてくれたが少しでも腹筋に力を入れると痛みに身体が自然に反応してビクンビクン動き、それがまた傷口を刺激して痛かった。髪の毛を洗い背中あたりを軽く洗ってもらい、あまりの痛さに、そこで勘弁してもらった。またICUのベッドに踊ってきてベッド脇に立ち上がり「思い切っていっきにゴロンと寝て!!」と言われたときにはさすがにイラッとした。支えてもらっても痛いのに一人で勢いつけて寝ろって言われても・・・。まるで燃え盛っている炎に飛び込めっていわれてるような感じだった。もちろんずっと立っていられないから、なんとかベッドに座りその後背もたれ(ベッドの上半身の方を70度位立てて)思い切って飛び込んだ。ほんの僅かなものであったが、当時の私は、あまりの痛さに身体が大きく痙攣したが、無事に背中をベッドにつけられた。その後はリモコンを使ってベッドを水平にした。痛かった。本当に痛かった。そう思ってるうちに寝てしまったようだ。
この一件からもちろんこの看護師とこのPTは大嫌いになった。

また、嚥下障害で飲食ができなくなった為、鼻から栄養を入れることになった。この管を入れた若い医師もなかなか上手に管を入れられず、10数回鼻から胃まで管を出し入れされて苦しかった。栄養は数週間続いたが、あんなにまずいと思った病院食のにおいがとても美味しそうに感じた。看護士さんに焼肉味の栄養とかカレー味、ラーメン味の栄養食をくれといっては困らせてしまった。
ごめんなさい.

術後数日は幻覚も多かった。自分が手術した事は自覚してたが、寝ている場所が何故か、熱海のホテルだったり、青山のビジネスホテルに居る様な錯覚が多くあった。また、私の手術が終わってから、手術台にトロの桶が持ち込まれ、医師や看護師たちが美味しそうに食べているような幻覚も見た。見たと言うより、想像した事が現実に起こったように感じることがあったようだ。
その頃は北京オリンピックの時期だったので日中はテレビを持ち込んで見させてもらっていた。早くこの無機質なICUから一般病棟に帰りたい一心で日々頑張った気がする。今日1日頑張れば明日は少し良くなれる、今日1日だけを我慢、耐えていこうと思い、過ごしてきた。
次回は一般病棟に移ってからのことを書きたいと思う。

稚拙な文章に加え、あいまいな記憶で申し訳ないが、私や家族の記録としてこの場を借りて残させていただきます。
2008年7月1日 手術当日

その日の朝、自然に目が醒めた。
その時にはすでに妻がベッド脇にいた。(あくまでも記憶だが。。。)
手術室には7時半か8時半に入る予定だったと思う。

手術室に入る前に点滴(麻酔も少し入れられたと思う。)をされ、私の両親、弟、伯父も病室に来てくれて、励ましてくれた。
「このまま死んだら、これが最後だなあ」等と不覚にも思ってしまった。また執刀して下さるO教授も挨拶に来てくれて、その後、数人の看護師さんに引かれてベッドごと手術室に向かった。
手術室前まで家族も一緒に来てくれたが、その時手術に入る医師から「オペは10時間以上かかると思います。開けてみないと正確にはわかりません。この大学病院ではこのような大きな手術は初めてです。でも、O教授は九州時代に経験されてますから、大丈夫ですよ。」みたいな事を言われて、正直私は不安だった。手術室に入る直前に両親に対して申し訳ない気持ちで一杯になり、少しうるっときた。
手術室に入ってブルーの手術着姿の医師や看護師がたくさん見えたところで、私は眠りに入ったようだ。その後気がついたのは術後のICUの大部屋だった。人工呼吸器が入っていて、息苦しくて目が覚めたような感じだった。その後、看護師や医師が来ていくつか質問されたが、内容は覚えていない。手術中のことは、後から妻や医師、看護師さん達にいろいろ聞いた。

手術は予定通りスタートしたようだ。
家族は手術室前でずっと待っていたようだが、夕方くらいに「手術は順調ですが、臓器の癒着がたくさんあるため慎重に行っているので、時間はまだまだかかります。」との説明があり、妻が近くのホテルに部屋を取り、何かあったら、手術が終わったら連絡が入るようになったため、妻はホテルで身体を休めて、両親、弟、伯父達はそれぞれ自宅に戻ったらしい。

そして、妻に連絡が入ったのは翌2日の早朝、日の出前だったらしい。ホテルから病院に来て手術室前に妻が到着すると間もなくオペを行っていた医師達の一人出てきて、「一応手術は終わりましたが、出血が凄いのですぐに再手術します。」と言われたそうだ。その時既に20時間経っていたようだ。

その後、再度胸を開き止血手術を施したらしい。
トータル24時間。本当に丸一日の手術が終わったらしい。

長時間かかった理由の一つは臓器の癒着が想像以上に酷かったらしい事と、最初に東京で心臓の直ぐ上から人工血管に置換したが心臓と人工血管の間の僅かな大動脈が裂けていたため、以前置換した場所も再度新しい人工血管に置換する必要があると手術前に説明を受けていたが、とても大変な施術だったらしい。
確かに、私のような素人が考えても理解できる。また、頚動脈も裂けていた為その部分も置換する必要があったというし、脳に近いし神経がたくさん近くにあるデリケートな場所だけにとても慎重に施術を行ってくれたらしい。お陰でこの手術による後遺症は今までのところ無かった。また、左片麻痺の影響で肩が亜脱臼している為、左脇下を切るための体勢がとれなくてとても苦労したらしい。(結局、肩が脱臼しないように、横向きの体勢で左手を何かに繋ぎ止めての手術となったらしい。)輸血も大量に行ったようだ。後で聞いたが、15,5リットルの輸血量だったらしい。これがとても多いかどうかの判断は私には出来ないが、1升瓶約9本分と考えると凄い量に思えてくる。その後の検査で肝炎、AIDSの感染も無くとても安心しました。

その後約1ヶ月間もの間このICU出過ごすことになった話はまた次回書きます。
心身ともにきつい1ヶ月間でした。。。
今日、久々に自分のブログを覗いてみた。もう1年以上更新していなかった。
今、私は自宅に戻って生活している。
脳梗塞の後遺症の左片麻痺のリハビリ中に乖離が再発しリハ病院から同じ県内の心臓(循環器)専門病院に転院したところで前回のブログで報告していた。
その後のことを今日から書いていくつもりだ。
結果的に転院先の病院で手術が必要と判断され、手術をしようとなったが、私の強い希望で隣県の大学病院で手術をしてもらうことになって、救急車にて転院した。2008年の5月下旬のことだった。(ちょうど2年前のこの時期だったと思う。)ただその頃は絶対安静状態で一日中寝て過ごしている状態だった。
転院先までの約3時間の救急車でのドライブだった。
転院先の大学病院では、少し動けた。車椅子を使ってトイレや売店に行くことも出来るようになった。
ただ、相変わらず左肩の亜脱臼の為痛みはしんどかった。
最初の大動脈乖離を手術して頂いた当時の主治医であるK先生のご紹介でこちらの大学病院で心臓外科の名医であるO教授から執刀していただけるようになった。

手術は2008年の7月1日に決まり、手術に向けての多くの検査や準備が約1ヶ月行われた。
こちらの医療スタッフにも大変良くして頂き、とても感謝しております。
今、振り返ってみると、手術の前日がとてもしんどかった記憶がある。
術後の痛みを和らげる為の痛み止めをいれる管を腰に入れる処置がきつかった。
看護師さんは「これから、術後の痛み止めのための管を腰に入れるよ。」と軽く言われたが、やられる方はそんなに気楽な心境ではなかった。
背骨に大きな釘をハンマーで打ちつけられているよな感じで、痛みはなかったが、精神的にはとても怖かった。

正直その夜(手術前夜)は、眠剤なしでは眠れなかった。
大手術になることは医師の説明でも理解できたし、最初に手術をしてくれたK医師からも聴かされていたし、自分で調べれば調べる程大変な手術であることは充分理解できた。

ただ、外科的な手術の怖さではない。
麻酔を打たれれば、あとは寝てるだけ、医師の技術と運と私の身体の強さが勝負だと思う。
精神は弱いけど、身体の強さと、運には自信があった。
怖かったのは、後遺症である。
片麻痺の後遺症の治療、リハビリの苦しさは経験済みである。身体の不自由さ以上に精神的な苦悩はきつかった。片麻痺ならまだましだが、寝たきり、植物人間状態で生きていくのは周りにも辛いだろうから、そういう状態になるんだったら死んだ方が良いと思っていたし、担当看護師さんや女房には話してあった。さすがに医師には言う勇気がなかったが「じゃあ、私が言ってやる。」と、女房に言われたときには相変わらず人の気持ちがわからない奴だなあ~とガッカリした。彼女には・・・???

次回は記憶を呼び戻して、手術当日のことを書こうと思う。
次回が数年後にならないことを願いながら、天気の良い今日、散歩リハビリに行こうと思う。
東京では「一生杖と装具は必要だよ。」と言っていたが、杖、装具無しで歩けるようになる為、諦めず怠らず頑張っています。
免許も更新できオートマ限定ですが、運転も再開してます。読んでくださる方の温かいコメントありがとうございます。ではっ
この地元の病院に転院してからは、精神的にずいぶん楽になった。
今までいた病院より食事も美味しいし、田舎の人たちはやはり優しいような気がした。
毎日のリハビリもモチベーションが上がり、とても意欲的に頑張っていた。
また、リハビリの無い土日を利用して実家に外泊したりして、気分転換や息抜きも出来た。
そんな、入院生活を送っていたある日の朝、異変を感じた。
朝から右の背中が痛かった。こっている様な痛さだった。張りがある感じだ。
リハ室に行き、担当のPT(理学療法士)さんにその事を伝えたところ、医師がとんできて、色々質問された。結局、大事を取って、痛い箇所をマッサージしてもらい、その日のリハビリは終了した。少しは楽になったのでその晩はしっかり眠れた。

翌朝目がさめると右の背中の痛みはほとんど感じなくなった。

がっ!!、

今度は背中の左側が痛くなった。

嫌な予感がした!!

痛みが違う!!
張りがあるこってるような痛みではない。看護師さんに揉んでもらっても良くならなかった。
看護師さんの報告を受けて
PTさんとお医者さんが来た。
痛みとお医者さんの様子から「ヤバイかも!!」という気がした。
医師の指示でレントゲンを撮った。
現像ができるまでは、寝ていろとの指示があり、その日のリハビリは中止になった。
やがて、看護師さんたちが熱を計ったり、血圧を計ったり、採血したり、バタバタしていた。
昼前に診察結果が出たようで医師が来て私に説明をし始めた。
その女医先生によると以前手術して置き換えた人工血管の先が解離し始めたようで、再手術の可能性が高く、この病院では手術も検査・治療もできないためこれから近くの心臓外科のある専門病院に転院するとのことだ。
再手術の可能性が高いことは知っていたが、想像以上にその時期が早くて正直驚いた。
その驚きの余韻が冷めないうちに、妻が到着し、転院に向けて荷物の片づけが始まった。
トイレに行きたかったが、看護師に止められ、尿器(尿瓶)にするよう言われたため、我慢した。
今朝までトイレに行ってたのに、急に「安静だからダメ!!」と言われてビックリしていた。
間もなくストレッチャーに乗せられ、外に待機していた救急車に運び込まれた。
女医先生が付き添ってくれて、約15分ぐらい離れた病院に転院した。


本当に久しぶりだ~
一年以上ぶりとかどんだけっっ笑
また、ぼちぼち更新していくんでよろしくです。

この一年はいろいろあったなぁ・・・
そういえば今年一年の一文字は「変」だった~
yozick家でも様々なことが起こった、変わった。

yozickは、また闘病した。
身体には麻痺が残ってしまったが、毎日笑顔が絶えない\(^^)/
やっぱり家族っていいよね~

yozickは長くて苦しい手術を乗り越えた。
自分は病院に行っても逃げてばっかりだった
一番辛いのはyozick自身と分かっているのに・・・

これからはまた同じ屋根の下で生活していく。
毎日、人生論やら何やらいろいろ話を聞きながら
みんなで頑張るっぺ(゜З゜)

そして私にも大きな変革が起こった一年だった。
中学校のチームでは、全県中総体で負けてしまった
しかしチームのエースとして攻めるバレーを最後まで続けることができた

そして市の選抜ではエースを努めた。
といっても、私の地区の選抜は県内で弱かった
まぁ、いい思い出作りになったような気はするような・・・笑

夏休み最終日、各地区の選抜チームが集まって試合をした。
中学校生活最後の試合になると思い、今できる全ての力を出し切った
試合後は何故か涙が出た。




私の中学生でのバレー生活は終わったんだ・・・




しかしその夜、一本の電話がきた。
バレー部の顧問からだった。
その内容を聞いて我が耳を疑った・・・まさかまさか

全県選抜に選ばれたとのこと。
あんびりーばぼーだった
しかし喜んでいられるのもつかの間だった

九月に入り、すぐに練習開始。
レシーブレシーブレシーブ・・・゜Д゜
私はセンタープレイヤーでひたすら速攻を打ち込んだ

ワンマンなど苦しい練習も山ほどあった。
でも最高の中間達とだからここまで頑張ってこれた
そしてレギュラーを取る事ができた

全国都道府県対抗中学生バレーボール大会は
12月25日~28日まで、大阪で開催される
緊張して胸が裂けそうだ

でも逃げない
全ては将来の夢を叶えるために・・・
今の結果を求めてたらその先の可能性は0に近くなってしまう。

最後まで私のバレーをやり通すのだ
JOCにでるみなさん頑張りましょう!
そして、良かったらコメントでも待ってますm(_)m

せばすちゃん



自宅に戻り、夕食を家族みんなで囲んだ。
両親は、何が食べたいか?としきりにきいてきたが、
私の答えは、「特別な物は何にもいらない。ご飯と味噌汁と漬物があれば良いよ。」

本心だった。
食卓に座れて、みんなで普通の物を普通に食べられればとても満足だと思った。
焼酎も少し飲んだ。
焼酎も食事もとても美味しかった。
何より、この輪の中に加われた事が幸せだった。
アルコールの力も借りて、今後はもっと前向きに考えて頑張っていこうと決意した。

夜、寝るときまで娘達が介助してくれた。
この親にしてはできすぎた子供達に感謝した。。。

翌朝、地元の病院に入院する為に妻の運転する車で向かった。約1時間後に病院に到着。
入院の手続きをし、病室に入った。
その日は主治医との面談、担当の療法士さん達の紹介、採血、レントゲン撮影、病院の案内などを受けて食事をとって休んだ。
1月の下旬にこの杉並区にあるリハビリ病院に転院して来た。
ここで、約3ヶ月過ごしたが、ここでの入院生活は精神的にかなり辛いものだった。

受持ちの看護師さんは優しくてとても良い人だったが、1ヶ月ほどで退職された。
看護スタッフの中に何人か苦手な人達がいて、嫌だった。

リハビリ病院だから入院患者さんは3~6ヶ月の長期入院が多い為か、患者に対してのタメ口や上から目線の言動がとても不快だった。患者を馬鹿にしてるんじゃないか、と思える言動が嫌だった。
たぶんにこの病院、グループの体質だろうと思えた。
リハビリにもそんな体質が出ていた。
私はここの理学療法士さんともうまくいかなかった。
装具の購入を勧められたが、その時の話し方や、私の気持ちを考慮しないような話し方が気に入らなかったし、モチベーションが下がるような発言が多く、やる気が失せてしまう事が多くあった。難しいことや、筋トレのような事が多く、叱られて、指示されて、きつくて、結構なストレスが溜まった。そのはけ口になったのは、まだ若い言語聴覚士(言葉の療法士)さんだった。彼女にはリハビリだけではなく、この病院に対しての不満を沢山聞いてもらった。間もなく、ケースワーカーさんが病室に来て、彼にその不満を聞いてもらった。ケースワーカーさんが動いてくれて多少解決できた問題もあったが、慣れない病院生活は、ストレスも多かった。1日に3度の食事が苦痛だった。食事療法も取り入れてることも良くわかるから、食べるように頑張ったが、不味すぎる。口に合わなすぎる。野菜を食べることは嫌じゃ無いが、苦労して味付けされてるのもわかるが、それが全く逆効果になっていた。普通に生野菜か、かるく茹でてだしてくれれば食べられるのに、工夫しすぎてかえって不味い味に成っているように思えた。魚も、赤身魚も白身魚も見た目は違ってもぼさぼさっとした食感と味は一緒で美味しくなかった。
また人生初の便秘で苦しんだのもこの頃だった。便意があっても硬くて出ない日が続いた。便秘薬、時々は浣腸の世話になった。その時に一部の看護師達は「いつも寝てるから便秘になるんだよ。動かないと腹筋も弱くなるからでなくなるよ。」等と、私に便秘の責任があるかのように言われ、嫌だった。
私も寝たくて寝ていたんじゃない!!左半身の麻痺のため、左肩が亜脱臼していて、起きてると肩が張って痛かったり、肩が下がって痛いから、横になって休んでいた。その痛さをわかってもらえずに悔しかった。また、夜中に徘徊する患者さんもいて、ある時眠りから目がさめたら、そのおじいさんが私のベッド脇に立っていて私を見ていた。夜中だけに、気持ち悪かった。
夜中に幻覚を見て喋ってる人もいた。

リハビリをすれば治ると思っていたが、思うように回複しない身体にイラついたり、今後の事を考えると
とても不安になった。
療法士さんのリハビリにも疑問を感じた為、転院を決意した。ケースワーカーさんにも相談して家族の住む地元の病院を探し、転院の希望を出したら、4月下旬なら受け入れ可能と言うことになり、無事に転院が決まった。今となっては、この病院でのリハビリ生活も有意義なものだったと思うが・・・・・。
私のストレスがここでのきつい入院生活の一番の原因だと思うが、病院サイドでも対処できることは多くあったと思う。今は誰に対しても嫌な感情は持っていない。が、また入院するかと聞かれたらNo,thank you!!です。

そして、4月の下旬のある日母が上京し、退院の手続きを取り、装具を付け杖をついて駅に歩いていき、電車を乗り継いで東京駅に出た。最寄り駅からは車椅子を借りた。母の従姉妹とその息子さんが病院に来てくれて、東京駅まで一緒に行った。東京駅で昼食を取ったが、普通の味付け(病院食じゃない)のハンバーグカレーが、美味しくてビックリした。
東京駅から新幹線で帰郷した。その日は実家に泊まり、翌日地元の病院に入院することになっていた。実家では2階の部屋には上がらず1階に寝た。まさかこんなかたちで田舎に戻ってくるとは全く想像していなかった。笑顔で出迎えてくれた家族に対して、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
ベッドから降りて、立ち上がり、車椅子に乗り込む練習をリハビリとして始めた。
同様に左手のひじの機能回復訓練も始めた。。。が、

立つ事は右足一本でもできるし、わりと順調に車椅子には乗り込めた。
また、立ち上がって、少し左足に体重をかけても膝がガクンと折れることは無かった。
左足は確かに動かなかったが、触られたり立つと、足の裏でその感触は感じられた。
この感覚がある事が、救いだと、今はわかる。
左足の感覚はある。筋力も問題ない、が、動かない、動かすことができない。更に、足首が持ち上がらないので、左足のつま先が垂れ下がり、「だらん」としている。
腕も数週間後には左肩が垂れ下がり、亜脱臼との診断を受けた。肩も腕も指も全く動かない。

つい、先日まで動いていた身体、
数十年間以上動いていた感覚はまだ、身体にも、記憶の中にもあり、思いどおりにならないことに、いらついた。

杖を使っての歩行訓練も始めたが、左足は動かない為、左腰を廻す反動で脚を出した。
つま先が垂れ下がっている為、床に引っかかり、つまづきそうになる。
それを防ぐ為に右足に大きく体重をかけ、左腰を持ち上げながら歩くから、かなりおかしな歩き方だったと思う。

1日1時間ほどのリハビリだった。
とても疲れたが、精神的な焦りの方が大きかった。
もっともっと、リハビリして、早く麻痺を治し退院しなきゃといらついた。
そんな時に、リハビリ病院への転院の話が出た。
リハビリ病院=リハビリの専門病院=専門のスタッフ・最新の設備=中身の濃いリハビリ=早期の機能回復=完治=退院・・・と単純に考えた私は一日も速く転院しなきゃ!!と思い込み、Mさん宅から一番近いリハビリ病院に転院希望を出した。
杏林の医師、看護スタッフとは良いコミュニケーションができていたので、転院にあたり、それだけは、残念だった。大晦日も元旦もここで過ごしたし、みんなとても親切な医療スタッフだった。
居心地はとても良かったけど、身体を治す事が一番大事だから、早く専門病院でリハビリしたかった。
手術から1ヶ月足らずの風の強い日に車椅子ごと介護タクシーに乗り込み、母と一緒に転院先に向かった。
2007年12月27日、昼12時過ぎ頃、
昼食をとるために職場の職員食堂に向かって歩いていた。
病棟から出て歩いている時、軽いめまいを感じながら歩いていた。
脚がもつれるようで上手く歩けなかった。

たまたま近くを歩いていた違う病棟の男性看護師さんが、
私の異変に気づいたらしく話しかけてくれた。
「大丈夫ですか?」
彼は、近くを通りかかった同僚の看護師をよびとめ、椅子を持ってくるように話し、
私の身体が倒れないように後ろから抱きかかえた。
椅子が届くと、私に座るように勧めた。
私は、大げさだよ、少し立ち眩みしただけだから、
「大丈夫、大丈夫!!」
と話したが、強引に座らせられた。
彼は、同僚にストレッチャーを持ってくるように話し、
それに私をのせて、看護部の部屋に運び込むような話をしていた。

私は、意識もハッキリあったし、大げさにはして欲しくなかった。
少し休めばすぐに良くなると思っていたが、看護部の部屋に入ると、内科のお医者さんもいて、
私に質問したり、身体をかるく動かしながら、
「救急車を呼んで!!」と指示していた。
あと、「杏林に運べ!!」と言っていた。

たぶん、その頃から眠くなってきた。
うとうとしていると、サイレンが聞こえ救急車が病院の敷地内に到着し、私は乗せられたようだ。

・・・乗せられたところは記憶に無い。
記憶が戻ったのは、救急車の中で。
自宅の電話番号をきかれ、教えた。

が、その時点でも私は、
疲れからくるめまいぐらいで家族を驚かせたくはない!!
と思い、頭を使ってみた。
「たぶん、90過ぎの祖母しか家にはいないから、話にはならないから・・・」などと話し、妻の携帯番号を伝えた。
また、職場の師長さんが一緒に救急車に乗り、付き添ってくれていた。
師長さんは一生懸命励ましてくれていた。
ありがたいと言う気持ちよりも申し訳ない気持ちで一杯になった。


そのまま私は眠ってしまった。
気が付いたらベッドに寝ていた。

腰が痛かった。
体勢を変えたかったが。身体が動かない!!

下の弟がいた。「手術は成功した!!良かった!良かった!!」と言っていたが、何それ?手術ってどういうこと??・・・全く意味がわからなかった。
そういえば、看護師さん達がいた。ここは病院なんだ!って気が付いた。

お医者さんらしい人が私の身体を動かしたり、いろいろ質問してきた。
その時初めて気が付いた。
左足と左手がピクリとも動かない。

それが、永い11ヶ月の入院生活の始まりだった。


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